文化講座

第18回「鳥取城物語」 佐々木孝文 氏

2014-07-18

土塁から石垣へ、城郭の進化が検証できる特異な鳥取城

[歴史家]佐々木孝文 氏

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 平成26年7月18日午後6時30分からサルーテで第18回『楽しく真剣!「サルーテ文化講座」』が開催されました。司会の角秋勝治氏の講師紹介を経て、歴史家・佐々木孝文氏の講演がスタート。鳥取城の成り立ち等、様々な史実の研究成果を、スライドを使いながら、熱く・力強くお話をされました。現在放映中のNHK「軍師官兵衛」の影響もあるのか、参加者は105名。多くの方々が熱心に聴講されていました。

 鳥取城は日本の中で、城造りの進化が一つの城の中で見てとれるという、特長を持っている城で、重要な史跡である。
 鳥取の出身でない私が、客観的に見ても全国でも貴重な凄い城である。
 鳥取城は天文年間に天神山から久松山へ移築され、山城として築城されたが、誰が築城したのかは不明である。正式に城主が確認されるのは、元亀年間、安芸の毛利と通じていた武田高信からである。
 天正元年、武田高信を討つため、山中鹿之助、山名豊国らが攻撃を行い、武田高信は城を明け渡し、山名豊国が城主となるが、天正3年毛利の勢力が直接鳥取城に及ぶこととなる。
 天正8年の羽柴秀吉軍の第一次鳥取城攻めは3ヵ月の攻防の末、山名豊国は織田方に降伏するが、天正9年3月毛利氏の吉川経家を城主として迎えた。
 これを受けて秀吉も再派兵を決断、天正9年6月鳥取城へ2万の兵員にて因幡国に進攻した。
秀吉は帝釈山(現在の太閤ヶ平、本陣山)に本陣を構え、帝釈山山頂・栗谷南嶺之陣・水道谷奥之陣等を含めた14、5の砦を瞬く間に築城し、鳥取城の包囲陣を完成させた。

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講師の佐々木孝文 氏

 太閤ヶ平には非常に大規模かつ緻密な構造の陣城が、そのまま残っており、土で造ったものでは日本最大クラスを誇る。山の中に700mの縦掘りと横堀りで防御している。織田軍の一武将にしては大規模な陣であり、2年前に当時中国出陣を考えていた織田信長を迎える為であることが判明した。
 ところで、秀吉軍は因幡での戦では殆んど勝っていない。防己尾城を防衛していた吉岡将監。湖畔の小城に秀吉軍は3度にわたって手勢を差し向けるが、将監は羽柴秀吉の大軍を3度とも撃破。
特に2度目の防己尾城攻撃の際は、秀吉自慢の千成瓢箪の馬印も打ち捨てられるほどの大勝だった。唯、雁金山城(湯所、元ロープウェイ跡)は鳥取城と丸山城・賀露港を結ぶ兵糧運搬路の中継点だったため、雁金山城側に疲労が見られた頃、宮部継潤が攻撃をし落城させ、その後鳥取城に向けて重厚な土塁が築いた。
 鳥取城が土の城の時代は、広島の毛利と京都の勢力との戦いの最前線地。三木城よりも大規模な山城で史績が残っている。
 宮部継潤が城代として入居。山城から石垣で構築する城へと変転していきます。鳥取城は高低の差を利用した城であり、地形は傾斜の厳しい所に石垣を積み上げて行きましたが、途中で工事を止めていますので、古い城跡がそのまま残っており、土の城が進化して行ったことが検証出来る。
薬研掘までの範囲が鳥取城となります。何故、袋川まで図面に描かなかったのか。憶測ですが、袋川の橋を修理する場合、袋川まで鳥取城の範囲と幕府に届けていれば、改修修理作業は幕府に届け出なければならなかったので、描かれなかったと考える。
 関ヶ原の戦いの戦功により、近江甲賀郡から池田長吉が移入。池田長吉に依り近世城郭へと改修され、元和3年池田光政が32万5000石の大名として入府。32万石の大名に相応しい規模に拡張された。
 天守台について、天正元年に山名豊国が布勢天神山城から鳥取城に移した際に、布勢天神山城の3層の天守を移築したとされているが、天神山には天守を建てる場所がなかった。池田長吉が鳥取城主となった際、強風によるゆがみを避けるために2層に改築。天守台は南北10間5尺、東西10間2尺のほぼ正方形。古絵図等によれば杮葺または板葺の屋根、下見板張りの外装という寒気に配慮した造りであったと考えられている。鳥取城の天守台は元禄3年に落雷で焼失し、以後再建されなかった。
 鳥取城の藩主は、初めてのお国入りの際、必ず、久松山の山頂まで、城代家老など4名位を引き連れて徒歩で登らなければならない掟があった。1回の藩主もいれば何回も登頂した藩主もいたという。庶民が久松山に上れるようになったのは、昭和11年からである。
 鳥取城は池田長吉により近世の城郭となったが、その後幕末までの約300年の間に改修・増築をされて、現在の史績となった。
 因みに、昭和34年から石垣の修理を始め、文化財修理を50年間も続けて居る所は鳥取城だけである。
明治維新を迎え、鳥取城は明治6年、陸軍省の管轄になり、第4軍管下へ。明治11年、建造物全てが払い下げ。明治12年、陸軍省の手により解体された。
 お城の破却の背景にある考え方は、軍事的利用価値がない。時節柄、各藩が城郭を要として割拠していることは無用なこと。維持修理費用を他に用いた方が良い。等、因みにこの当時、文化財の保護の観点はなかった。

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「⿃取城の範囲とは、お堀端まででなく、薬研掘まで、袋川には桜ではなく⽵を植え、視界を遮っていた」

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「史跡⿃取城は、⿃取城跡だけでなく久松⼭全てと太閤ヶ平を含範囲である」

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「明治6年の廃城令で城がとり潰されたのではなく、軍事拠点としての機能も失われ、維持管理費に困窮」


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「明治12年取り壊す前の写真があるので、信憑性のある復元をするには、いい資料となる」

■佐々木孝文 ⽒のプロフィール

  • 兵庫県神戸市生まれ。同志社大学・同大学院で文化歴史を学び、1997年、鳥取市歴史博物館学芸員。
  • 2006年から市教育委員会文化財課課長補佐として、鳥取城整備推進を担当し、係長兼文化財専門委員を務める。
  • 『生田長江』『鳥取の歴史散歩』などを共著。
    著書は『城下町鳥取』『もだにずむ@とっとり鳥取発大正・昭和を翔け抜けたひとびと』など

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